雇用契約上の誠実義務
雇用契約上、労働者が負う基本的義務として、労務を提供する義務があります。
しかし、労働者が負っているのは労務提供義務だけではありません。
労働者は、使用者の正当な利益を信頼関係を破壊するような不当な態様で侵害してはならないという義務(誠実義務)も負っています。
労働契約法3条の4でも「労働者及び使用者は・・・信義に従い誠実に、権利を行使し、及び義務を履行しなければならない」という原則が謳われています。
このような義務の具体化として、労働者は、在職中において、例えば競業行為を行ってはならない義務や、秘密を保持すべき義務などを負うことになります。これらの義務の違反によって会社に損害が発生すれば、損害賠償の問題も生じてきます。
近年は、入社時に在職中の競業避止や守秘義務などについて誓約書をとる例も増えていますが、誓約書の有無に関わらず、労働者はこのような在職中の義務を負っている点に注意が必要です。
一方で、退職を考えている労働者が、退職後に備えて在職中に一定の準備行為を行ったり、顧客や同僚への働きかけ等を行うことがあります。退職後に速やかに次の生計手段を確保していくためにも、在職中に何かしらの行動をとる必要があることはありますが、他方で在職中ということから、上記の誠実義務との関係は気になるところだと思います。
そこで、ここでは、近年の裁判例を見ながら、どのような行為が在職中の誠実義務違反になるのかという点について考えていきたいと思います。
競業会社への転職活動と誠実義務
平成19年5月31日東京地裁判決は、酒類の販売を行う会社において勤務していた従業員らが、在職中に、退職後の競業会社への就職を計画していた行為について、次のように述べて違法性を否定しています。
会社の従業員が退職前にその転職先を探すことは、本来の職務時間外にこれを行い、職務の執行に支障を来さない限りは、それが競業会社への転職であっても、そのこと自体が直ちに誠実義務違反となるものではない
同判決は「顧客を違法な手段で奪取することを計画したとか、従業員の退職によって必然的に生じ得る業務の混乱をことさらに拡大させるようなことを計画し、実行したというような事情があれば、そのこと自体が誠実義務違反に問われるとしても、単に競業会社への転職を計画したということだけでは誠実義務違反とはならない」とも指摘しています。
競業会社を設立する行為と誠実義務
同じ平成19年5月31日東京地裁判決は、従業員らが在職中に競業会社を設立して、1名が代表取締役に就任し、軽自動車2台を購入した行為についても、次のように判示しています。
会社の従業員が在職中に競業会社を設立し、競業行為を行えば違法というべきであるとしても、単に会社を設立しただけで何らの競業行為をしていないとすれば、その設立行為自体を違法とまでいうことはできない
自動車の購入についても、「本件ではせいぜい開業準備行為にとどまる」として誠実義務違反を否定しました。
連絡先を伝える行為と誠実義務
営業活動かどうかという点に関して、別の例も見てみます。
令和5年12月26日札幌高裁判決では、アパート・マンション総合管理などを行う会社の営業部に勤務していた労働者が、退職前に物件のオーナーや関係者、テナントの担当者に対し、業務上貸与されていたスマートフォンから私的な携帯電話番号を教示するなどのメッセージを送信した行為が問題とされました。
しかし、裁判所は、これらの行為について「直ちに競業としての営業活動と解することはできない」として違法性を否定しました。
退職挨拶と誠実義務
顧客などに退職の挨拶をすること自体は、常識的にも何ら問題が無いように思えますが、一方で顧客に退職の挨拶を行う中で「今後はどうなるのか」という話になるのは、ある意味自然な流れです。そのため、このような退職の挨拶に際しての振る舞いが問題となることがあります。
この点、平成18年7月25日の東京地裁判決は、訪問介護サービス会社の労働者が退職前に担当利用者の一部に退職の挨拶をした際、介護サービスの継続を希望する場合はケアマネージャーと相談することを勧めた行為について、次のように判示し、違法性を否定しました。
・退社時に自ら担当していた顧客に対し,単に退社の挨拶を行うことは,継続的に関係を有していた利用者に対する行為として社会通念上も許容される
・退社の挨拶に際し,被告両名が積極的に新規事業の立ち上げの説明及びそれへの利用者の勧誘を行ったという事情はないから、社会通念上許される退社の挨拶の域を超えないものというべきである
また、平成24年4月26日大阪地裁判決は、会計事務所で勤務する労働者2名(うち1名は税理士)が、退職後に従前担当していた顧客との間で記帳代行業務や税務申告業務に関する契約を締結したことについて
顧客に対し退職の挨拶をする際などにおいて、退職後の取引を依頼したとしても、そのこと自体が、常に、雇用契約継続期間中における競業避止義務に違反するというわけではない
とした上で、従業員らが、退職の前後を通じて顧客に積極的に働きかけて会計事務所との契約を解約させた事実は認められないとして違法性を否定しました。(詳しくはこちら→退職の挨拶と在職中の競業避止義務
ここから見て取れるように、積極的な働きかけかどうかが一つのポイントとなります。
もう一つ、退職の挨拶に伴う営業活動といえる事例(令和5年11月29日東京地裁)を見てみます。
この事案では、業務委託業、派遣業などを行う会社に勤務する労働者が、在職中に、同種の目的を有する新会社を設立した上で、取引先担当者に対して、新会社による業務受託について打診した行為が問題となりました。
裁判所は、この行為は「新会社の契約締結のための営業活動と評価することができる」としつつも、次の点を指摘して、違法性はないと判断しました。
①元の会社との受託契約が期間満了で終了した後の期間についての営業行為であったこと
②元の会社の受託契約が当然に更新を予定していたものではなかったこと
③営業活動が1度だけで退職の挨拶に関連して行われたものに過ぎないこと
④元の会社について虚偽の情報を伝えたり、その信用をおとしめるような内容ではなかったこと
ここでは、元の会社と顧客との現在の契約を奪う行為ではなく、それが期間満了で終了した後の期間に関するやりとりであったことや、虚偽の情報を伝えたり信用をおとしめるものではかったという方法に着目して違法性が否定されています。
顧客への働きかけと誠実義務
一方で、顧客への働きかけについて違法と判断された例をいくつか見てみます。
在宅介護サービスを提供する会社で勤務していた労働者が、在職中に、同種の事業を行う新会社を設立し、その取締役に就任した上、介護サービスの提供を開始した旨などを記載したチラシを作成して、勤務する会社の顧客を含む者に配布した(ただし、特に原告の顧客に対して特別な勧誘をするなどの活動をしてはいなかった)行為について、元の会社と競業関係となる営業活動をすることは就業規則(雇用契約)に反し、違法となると判示。
(平成18年9月4日東京地裁判決)
宇宙・航空関連機器などの輸出入、販売などを行う会社の支店長を務めていた労働者が、在職中に、同種の事業を目的とする新会社を設立して代表取締役に就任した上、取引先に対して会社が刑事告発を受けている旨伝えて一斉に契約を解除させ、また、支店の部下全員である2名に働きかけて一斉に退職届を提出させ、さらに、支店のサーバーなどに記録されていた取引関係に関わる情報を削除し、顧客名刺を持ち去るなど支店の機能を喪失させた行為について、会社の利益に著しく反するものであって違法と判示。(令和3年1月14日名古屋地裁判決)
室内装飾などを行う会社で、展示場における出展ブースの営業職に従事していた労働者が、出店ブースのデザインと施工の一括受注を得ていた顧客に対して、退職することと、同顧客の業務は引き続き自分が進行することになったとの虚偽の内容を伝えた上で、連絡先メールアドレスを伝え、またバース等のデータを転送するなど、退職後も本案件を引き続き受任できるように準備をし、さらに担当者として自分の名前を記入した競業会社の名前による電気工事申請書を作成したという行為について、「競業の準備のみならず、具体的な施工にも競業会社として関与しており、直接的競業行為や顧客引き抜き行為を行っている」として「競業避止義務に違反する」と判示(令和5年2月22日東京地裁判決)
いずれも単なる開業準備にはとどまらない行為が行われていることから、違法性が肯定されています。
一方で、開業準備にとどまるとは言いがたい行為について、違法性が否定されている例として、平成18年7月25日東京地裁判決を見てみます。
この事案では、訪問介護サービス事業を営む会社で勤務する労働者が、在職中に、登録ヘルパーに個別に連絡し、設立した新会社の事業所を見学させて重複登録を勧誘した行為が問題となりました。
裁判所は「有給休暇を取得していたことを考慮しても問題性のある行為」としながらも、次の点を指摘して、「一連の行為を全体として評価すれば、正当な競争秩序の枠を超えるものとまではいえない」として違法性を否定しました。
①重複登録を求めただけで元の会社への登録抹消を求めたわけではないこと
②自身の職務遂行を通じて知った登録ヘルパーに対して勧誘をしただけで、無関係の登録ヘルパーに対して幅広く勧誘をしたわけではないこと
③通常の業務遂行の過程においては知り得ないような情報を用いて勧誘を行った事情はないこと
④勧誘行為が発覚した後は、新会社の事業所を見学させることを停止し、既に勧誘した登録ヘルパーに対しては勧誘を撤回する旨を連絡したこと
この事案では、勧誘の停止・撤回をしたことも考慮した上で違法性を否定していますので、限界事例に近いような印象を受けます。
顧客の奪取と損害
なお、在職中の競業避止義務違反が認められる場合にも、それによってどういう損害が発生したのかという点は別途大きな問題になります。
元の会社との間で既に取り引き関係にある顧客を新会社が奪うような場合は損害の発生を考えやすいのに対して、潜在的な顧客の場合には、損害が発生したと言うためには一定のハードルがあるという点に注意が必要です。
例えば、令和4年10月28日東京地裁判決は、不動産の販売、仲介などを行う会社で、不動産の営業を担当していた労働者が、自分が担当して不動産を購入したことのある顧客の氏名や電話番号を、別の不動産会社の代表取締役を務める友人に漏洩した上、投資用不動産購入の提案をし、不動産コンサルティング報酬として金員を得ていたという事案です。
この事案で、裁判所は、在職中の競業避止義務、秘密保持義務に違反したものと認定しながらも
「競業避止義務違反がなければ、会社が顧客との間であらたに投資用不動産の売買契約を締結したという相当程度の蓋然性があるとまでは認められない」
として、これによる損害(逸失利益)の発生を否定しています。