「退職後に同業他社に転職したら、会社から“退職金を返せ”と言われた」──こうしたトラブルは、競業避止義務の条項が就業規則や誓約書に含まれている職場では少なくありません。
では、そのような退職後の競業避止義務違反を理由に、会社は退職金の返還を本当に求めることができるのでしょうか?
本記事では、実際にあった裁判例(平成21年11月9日 東京地裁判決)を取り上げ、退職後の競業避止義務を定めた就業規則の効力について詳しく解説します。
なお、そもそも競業避止義務とは何か、有効性の判断基準はどのようなものかを整理してから読み進めたい方は、まず以下の記事をご覧ください。
⇒退職後の競業避止義務~誓約書は拒否できるか?
平成21年11月9日東京地裁判決
事案の概要
この裁判は、従業員に一度支払われた退職金について、就業規則に定められた競業避止義務に違反したとして、会社がその返還を求めた事案です。
原告となったのは、空調設備の保守・販売を手がける企業。対象となった従業員は、同社で25年間にわたり空調機器の保守メンテナンス業務に従事してきました。
退職後、従業員は同業他社へ転職しますが、この転職先は、元同社の取締役が設立した競合企業でした。
実は、これまでにも10人以上の元社員が同社へ転職していた経緯があり、会社は、この特定の競合他社への人材の流出を防ごうとして競業避止義務と退職金の返還を定めた条項を就業規則に入れていたのです。
就業規則では、次のようなルールが定められていました:
従業員は、原則として退職後1年間、会社の承認を得ずに次のことをしてはならない
① 会社と競合する事業を行うこと
② 競業他社へ就職すること
さらに、これに違反した場合には、既に支給された退職金の返還を求めることがあると明記されていたのです。
しかし、裁判所はこの規定について、「従業員の職業選択の自由を過度に制約するもので、公序良俗に反し無効である」と判断。したがって、退職金の返還請求も認められないと結論づけました。
保護すべき「営業の秘密」か
この裁判で裁判所が最初に注目したのは、会社が競業避止義務によって守ろうとしていた「営業の秘密」が、法的に見てどの程度保護されるべき情報だったのかという点でした。
興味深いのは次の点です。
会社は、「この競業避止義務は、元取締役が立ち上げた特定の競合企業への就職を防ぐためのものであり、それ以外の競業他社への就職については問題視していない。したがって、従業員の職業選択の自由を大きく制約するわけではないから問題はない」と述べていました。
しかし、裁判所はこれを逆手に取るような形で、次のように評価しました:
「もし問題視しているのが特定の競合企業のみであるならば、会社が守ろうとしている“営業秘密”は、客観的に保護する必要が高いとは言い難い」
さらに裁判所は次のように指摘しています:
「会社が実際に防ごうとしているのは、営業の秘密などではなく、いろいろな因縁のある特定の競業他社への就職そのものである」
その上で、次のようにも述べました:
「そのような会社の主観的利益は、退職後の競業避止義務やその違反による退職金の返還条項によって確保すべきものではない」
このように、競業避止義務が問題となる場合には、会社がこれによって守ろうとしている利益(この場合は「営業秘密」)が実質的に保護に値するものであるかどうかが、重要な判断基準の一つとなるのです。
なお、不正競争防止法が問題となる場合における営業秘密の意義については、以下の記事で詳しく解説しています。⇒不正競争防止法における営業秘密とは何か
制約に客観的必要性があるのか
私の経験でも、会社が競業避止義務違反を主張するケースでは、客観的な必要性が曖昧で、競争者を排除したいといった主観的な心情に基づいていることが少なくありません。
そもそも競業避止義務規定によって客観的に保護すべき会社の利益があるのか、あるとしてもどの程度重大なものなのかという出発点の議論が大切であることを改めて感じます。
また、裁判所が就業規則の競業避止義務規定を無効と判断するに当たっては、この従業員が従事してきた「空調機器の保守メンテナンス」という業務による経験が特殊なものであるため、これを他の業種で生かすのは困難であって同業他社に就職できないという不利益が非常に大きいという点や、このような不利益に対して代償措置が何ら講じられていないという点が重要視されています。
また、本件で裁判所は、就業規則の競業避止条項を無効と判断する際、次のような点を重視しています。
・対象となった従業員が25年間従事してきたのは「空調機器の保守メンテナンス」という特殊性のある業務であり、同業他社に就職できないという不利益が非常に大きいこと。
・それにもかかわらず、不利益に対して代償措置が何ら講じられていないこと。
このような代償措置の問題については、こちらの記事で詳しく解説しています。
⇒代償措置のない競業避止義務は有効か
控訴審判決(平成22年4月27日東京高裁判決)
一審判決を不服とした会社は控訴しましたが、平成22年4月27日に言い渡された東京高等裁判所の判断でも、会社側の主張は退けられ、退職金返還請求は認められませんでした。
職業選択の自由に対する重大な制約と代替措置の不存在
裁判所は、まず、問題となっている競業禁止規定は、従業員の退職後の職業選択の自由に対して重大な制約を加えるものである一方、何らの代償措置も講じられていないことを指摘しました。
そして、会社が従業員に書かせた誓約書では、会社の営業機密の開示、漏洩、第三者のための使用を禁じる旨が記載されていたことも踏まえ、当該競業禁止規定によって禁止されているのは、
「従業員が退職後に競合する事業を実施することや競業他社に就職することの全て」
ではなく、そのうち
「会社の営業機密を開示、漏洩し、あるいはこれを第三者のために使用するに至るような態様のものに限定される」
と判断しました。
つまり、一審の東京地裁判決が、競業禁止規定について全面的に効力を認めなかったのに対して、競業禁止の有効性は一定程度は認めつつも、その範囲は非常に限定的であると判断したのです。
営業機密にあたるか?
そして、裁判所は、本ケースで従業員らが在職中に行ってきたような、機械メーカーの操作説明書に従って行う保守点検等の作業ノウハウは「その性質上控訴人の営業機密に当たるとは認め難い」と指摘し、問題となった競合他社への就職も競合禁止規定に抵触するものではないと結論づけました。
一審判決と同様、出発点として会社が営業秘密と主張しているものの実質的な中身(果たしたてそれが営業機密に当たるといえるのか)という点を考察している点が着目されます。
逆に競業避止義務に効力を認めた事例について知りたい方はこちらもご覧下さい。
⇒競業避止の誓約書が有効と認められた裁判例
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競業避止義務でお悩みの方へ
競業避止義務に関する判断は、具体的な事情によっても大きく異なります。また、初動を間違えることで、より大きなトラブルに発展することもあります。
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